platonのブログ

思考の整理とアウトプット、たまにグラブル

月曜日に会社に行きたくない新社会人の君へ

休むこと自体に、君が過度な罪の意識をもつ必要はない。

君が考えるほど、周囲の人は君のことを考えてはいない。

 

はじめに

新年度おめでとうございます。

近頃、満開の桜を目にするのは3月となり、新年度と桜を結びつけることが難しくなっていると感じています。

もちろん桜が咲いていながら、かつ花びらが風に乗って「散る」光景を総じて「春」と呼ぶのであれば、まだ向こう数十年は桜・春・新年度の符号は可能でしょう。

 

さて、新社会人はもちろんのこと、新年度となり進学・就職・異動・転職・転居など、周囲の環境が変化した人は多いのではないでしょうか。

心機一転するよい契機と考える人もいる一方で、慣れない環境に戸惑い、体調を崩す人も少なからずいると思います。

 

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私も、新社会人の頃から仕事に慣れず苦労し、会社に行きたくない気持ちが爆発、しばらく引きこもった経験は一度や二度ではありません。

とりあえず、メールやLINEで「休みます」というメッセージだけでもポチっておくことをお勧めします。

経験上、反応がないと家まで来てくださったり、実家に連絡が入るケースが多いためです。

 

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同期がどんどん仕事を覚えていくなか、「上司って名字+役職名で呼ぶの?フツーに50歳くらいの人のこと〇〇さんって呼んでたけど」「"別添"って何?"べつぞえ"じゃないんすか」といった社会常識の欠如からくる大人になりきれない学生気分、ないしは「なんで働かなくちゃいけないの?」といった子どものような感情が沸き起こることも多く、社会の歯車になりきれない自己に対して歯がゆさを覚えていました。

 

山月記

こうした経験から、中島敦の「山月記」で語られた「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という言葉が頭をよぎるようになりました。

 

(主人公の李徴について)・・・いくばくもなく官を退いた後は、故山、虢略に帰臥し、人と交を絶って、ひたすら詩作に耽った。下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。

(虎になった李徴の自嘲)・・・己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。

 

高校の教科書で読んだ際には、人が虎に化けるエンタメ作品とみなす浅薄な理解しかできませんでしたが、今では李徴の気持ちが痛いほどよくわかります。

いざ社会に出れば他者との交流の総量が学生時代の何倍にも膨れ上がり、今までと同じような気持ちで一人ひとりと付き合っていては、次の展開を予測したり相手の感情を推し量る処理が追い付かなくなり、パンクしてしまいます。

 

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そこで仕事は仕事と割り切ることができれば、一般に言われる「社会人」「大人」として自立することができるのかもしれません。私にはできませんでした。

自分がこういうことをしたら周囲の人はどう思うか、その後はどのようなストーリーに分岐していくかといったシミュレーションを無意識に回してしまい、思考に体が追い付かなくなり気づいた時には会社に行けない状態になる、というのも無理からぬ話でしょう。

新しい環境では特にそれが顕著であるように思います。

 

ウォール街のランダム・ウォーカー

また別の著作からの引用ですが、1973年にインデックス・ファンド投資の有用性を説いた「ウォール街のランダム・ウォーカー」を書いたバートン・マルキールは本書のなかで、定年後も可能な限り働くべきと勧めています。

 

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彼の専門分野から考えて「定年延長は資産運用に有利に働く」という論拠はもっともですが、大事なのは「社会とつながりを保ち、仕事を通して自尊心を満足させること」だと語っています。

確かに、他者あるいは社会に対して何かしらの思いやり、ないしは付加価値を贈ると、「情けは人の為ならず」というように自分を認めることにつながっていくのを実感します。

 

自己実現の手段としての「仕事」

先人の助言と自らの経験から、自己実現の手段の一つとして選ぶのであれば、仕事、特に雇われ仕事は一定程度効果的であると考えています。

 

山月記で虎になった李徴は元公務員でしたが、下っ端仕事に我慢できず辞めてしまい、詩人を目指したものの他人に揉まれることを嫌がったため、大成しませんでした。
一方、李徴の同期である袁傪は公務員として地道に働き、出世をしています。

 

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マルキールは資産運用の観点のみならず、人生を豊かにするために社会とかかわりを持つことを勧めていました。
社会とかかわる手段として簡単なのは、再雇用でサラリーマンとして働き続けてみたり、地域のボランティア活動への参加などでしょうか。

 

実際仕事内容の大小にかかわらず、他者とのやりとりを含めた一定程度の業務をこなすことは、自らを認めることに多少なりとも役立っていると感じます。
これは人との交流が、社会にいくばくかの影響を及ぼしている、何かしらに貢献していると感じる一助となるためでしょう。

  

おわりに

仕事に行きたくない、というのはほとんどの人が一度は抱く感情ではないでしょうか。

そんな時、這ってでも行った方がいい、とは私は言いません。(そもそも私は真似できません)

 

ただ、せっかく生まれた感情に蓋をして無理に歩みを進める前に、一度立ち止まって吟味してみるのも悪くないと思います。

なぜ働かなければならないのか、生活費を稼ぐという目的しかないのか、みんなこんな苦労を乗り越えてきたのか・・・。

 

ネガティブな面を見つけるのは簡単ですが、お金を稼ぐためだけではなく、自分を認め自尊心を満たす一つの方法として仕事の利用価値もあるかもしれない、と気楽に考え肩の力を抜いてみるのがよいでしょう。

 

結びとして、冒頭の言葉で締めくくりたいと思います。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

休むこと自体に、君が過度な罪の意識をもつ必要はない。

君が考えるほど、周囲の人は君のことを考えてはいない。