はじめに、読んだきっかけ
先日、ドイツの詩人ゲーテの生涯をかけた著作、「ファウスト」を読みました。
彼は「若きウェルテルの悩み」でも有名ですね。
そちらは以前読んだことがありました(内容は忘れました)が、「ファウスト」は構想から完成までゲーテがほぼその一生を捧げたと聞いており、何となく大部にわたる物語(それこそ、プルーストの「失われた時を求めて」くらいの長さ)かと考えており、食指が伸びないままでした。
ですが最近「カラマーゾフの兄弟」を十余年ぶりに読み、その解説で「ファウスト」がモチーフとされているような言及が気になり、重い腰を上げて読んでみようと思い手に取りました。
行きつけのブックオフで探してみると、意外にも一部と二部で文庫本二冊分しかなく、一部は一日で一気に読み切れるほどでした。
本を紐解き、頭に浮かんだこと
内容としては、学問を究めようと学び続けたものの渇きを感じるファウスト博士が、悪魔メフィストフェレスに唆されて若返りの薬を飲み、この世の快楽を享受していくが・・・というお話です。
最初、様々な学問を研究していたことがファウスト自身によって語られますが、どことなく「方法序説」を著したデカルトに似ているなと感じました。
彼もあらゆる学問の真髄を究めようと学び、最終的には「cogito, ergo sum(我思うゆえに我あり)※あらゆることは疑わしいと考えられるが、この考えている自分自身は確かな存在である」という真理を発見しました(ついでに言うと、学問の中で数学はどうやら確からしい、とのこと)。
自分なりの真理に辿り着いたデカルトと、渇きを癒せず悪魔に魂を売ってしまったファウスト。
実在の人物と創作上のキャラクターという違いはありますが、二人をよく比べてみることで、ともすれば研究者の成功の条件のようなものを紐解くことができるかもしれませんね。
まあ、やっぱり人との交流が大事ということなのかな・・・とは思います。
山月記で虎になってしまった李徴も、人との交わりを絶って詩作にふけるものの大成せず、それを本人も切磋琢磨しなかったことが原因と語っています。
成功のためには他者とのコミュニケーションで自分の強みを磨いていく、ということが求められるのでしょうか。
なかなかそれが難しいんですけどね!
それでは、本編へ進んでいきます。
といっても、いちいち仔細を書いていては読書の面白みを損なってしまいますので、個人的に気になった箇所をつまんでみます。
まず、この物語は韻文で書かれた悲劇の戯曲であり、例に漏れず様々な比喩表現、修飾がちりばめられているという特徴があります。
普段日常的に読む文章は、ニュースのようにわかりやすく簡潔な記述を心がけて書かれるものが多いということもあり、こうした飾りつけがたっぷりの―――スポンジにクリームやフルーツでデコレーションされたケーキのような―――文章を読むのは、それだけで新鮮に感じ、思わぬ満足感がありました。
それでいて冗長とは感じないほどすっきりサクサクと話が進んでいきます(少なくとも、マドレーヌを紅茶に溶かして云々よりは簡潔です)。
第一部、平民として。町娘との恋と破滅
第一部はファウストとメフィストフェレスの出会いと契約、平民の日常、純朴な村娘グレートヒェン(マルガレーテ)との甘いひと時、そして破綻がワルプルギスの夜で締めくくられています。
ワルプルギスの夜という言葉はアニメの「魔法少女まどか☆マギカ」で覚えましたが、4月30日、魔女たちが集まる夜という意味があったのは初めて知りました。
この日を描いた幕ではゲーテや、その盟友シラー(「群盗」で有名な詩人)と文壇で戦った批判者たちへの風刺が効いており、18世紀後半のドイツ文学界で起こった疾風怒濤運動(シュトゥルム・ウント・ドラング)を垣間見られたような気分になりました。
グレートヒェンに恋するあまり、その障壁となる人を手にかけてしまうファウストですが、もし「ファウスト」を先に読んでいたら、私は「カラマーゾフの兄弟」本編内最大の事件は長男ドミートリ―が起こしたと信じて疑わなかっただろうと思います。
彼も愛するグルーシェニカとの障害になっている父フョードルに対し、強い敵意を持っていたことが劇中を通して強調されていました。
ドストエフスキーは「ファウスト」からインスピレーションを得つつも、「カラマーゾフの兄弟」読者にファウストとグレートヒェンとの関係性が重なるように錯覚させることで、物語のミステリーとしての価値を高めたのかもしれませんね。
概して第一部は恋愛の喜び、そして悲哀がダイナミックに描かれています。
ここまで読み終わった時は、この一部だけでも悲劇としてよくまとまっているなと感じました。
しかし全体を読み終わってから振り返ると、この話は続く第二部をより壮大に見せるための伏線の意味合いが強いのかな?とも思いました。
第二部、格式高く。古代ギリシアへの冒険と志
第二部では、皇帝や宰相といった人々と関わり合う、いわば上流階級の中に入り込んで話が進みます。
彼らの国は資金繰りに困っていましたが、主人公たちは根拠もなく「地中に財宝が埋まっているから、それを担保に紙幣を大量発行して景気を良くしましょう」と言葉巧みに皇帝らを騙します。
鵜呑みにした彼らが紙幣を発行して国の借金を返還、家臣たちにも与えたことで、国中にお金があふれ国民たちも大量消費に浮かれ踊る事態となります。
この場面では、第一次世界大戦後の賠償金にあえぎ紙幣を大量発行してインフレが起こったドイツや、借金してでも株を買いまくった世界恐慌前のアメリカ、銀行が貸しまくったバブル崩壊前の日本が重なりました。
そして現在インフレが進むアメリカで、リボ払いを含む個人のローン残高(消費者信用残高)が膨らんでいるという報道も思い出されました。
In April, consumer credit increased at a seasonally adjusted annual rate of 10.1 percent. Revolving credit increased at an annual rate of 19.6 percent, while nonrevolving credit increased at an annual rate of 7.1 percent.
その後すっかり機嫌を良くした皇帝の頼みでファウストは、トロイア戦争の英雄パリス、そして彼が略奪した、ゼウスの娘たる美女ヘレネ―を呼び出します。
ここでメフィストフェレスが、キリスト教の概念上の存在である自分は古代ギリシアの登場人物とは相性が悪いという弱音を吐いており、クスリときました。
おそらくキリスト教の神ヤハウェと、ギリシア神話の主神ゼウスとの違いを念頭に置いた言及でしょう。
もしも皇帝が「ミョルニルを持ってこい」と注文しても、その持ち主トールが所属する北欧神話との相性の悪さをぶつくさ言うんでしょうね。
悪魔でもその辺の領分と言いますか、下地、ルーツの違いについての意識はきっちりしているんだな、と面白く思いました。
何とか二人を呼び出したファウストですが、ヘレネ―のあまりの美しさに見惚れてパリスに嫉妬してしまいます。
無理にヘレネ―をものにしようとしたところ、あえなく失敗に終わりました。
ホメロスの「イリアス」で書かれているように、パリスがスパルタ王妃ヘレネ―をメネラウス王から奪ったことがきっかけでトロイア戦争が起こったほどなので、その二人の恋路を邪魔するのは戦争を支配できるレベルの、英雄あるいは神にしかできない所業なのでしょうね。
その意味で、ファウストは英雄でも神でもない存在で、様々な力が与えられているものの、その後ろ盾が悪魔であることの影響は少なからず受けているということが暗示されているように思いました。
また二部中では、ファウストのかつての弟子ワーグネルが人間(ホムンクルス)を生み出そうと実験する最中に放った次の言葉が印象的でした。
「すぐれた思考力を持つ脳髄などは、
将来は思考家の手で創られることになるだろう。」
人間が人間をつくることについて語られた言葉でしょうが、私はこの一節を読み、昨今の人工知能(AI)開発が重なりました。
1993年には「今後30年以内に人間よりも賢い知性の創造が行われる」という予測がされており、その創造の時点は技術的特異点、シンギュラリティと呼ばれています(そろそろ期限でしょうか?)。
「すぐれた思考力を持つ脳髄」をシンギュラリティ以後(あるいは以前でも十分かもしれません)の人工知能と考えるならば、さしずめゲーテが語った「思考家」とは、プログラム、あるいはアルゴリズム≒思考の流れ、を考えだす者と見なせるでしょうか。
プログラマーは、ある意味現代の思考家≒哲学者と考えられるのかもしれませんね。
Within thirty years, we will have the technological means to create superhuman intelligence.
Vemor Vinge, "THE COMING TECHNOLOGICAL SINGULARITY: HOW TO SURVIVE IN THE POST-HUMAN ERA", 1993.
話は進み、前述のワーグネルにつくられたホムンクルスが人間の肉体を求めて古代ギリシア世界を彷徨うのですが、そこでまさかのタレスとアナクサゴラスが登場することに笑ってしまいました。
他に登場するのはセイレーンやラミア、スフィンクスといった怪物が主であるため、いきなり人間、しかも哲学者が出てきてちょっと驚きました。
劇中でタレスは水から生物が生じ、アナクサゴラスは火から生物が生じると考えて彼らは論争を繰り広げるのですが、後者が火成論者だというのは(自分の不勉強もあり)他の文献ではあまり見ないので、ちょっと不思議に思いました(万物の根源は火であると唱えたことで有名なのがヘラクレイトスということもあります)。
タレスを活躍させたい、でもちょうどいいかませ犬になる相手がいない・・・せや!アナクサゴラスに対立軸を担わせたろ!とゲーテが考えてちょいと手を加えたのかもしれませんね。
さらにタレスはアナクサゴラスとの論争に勝った後、ネーレウスやプロテウスといった海神たちとも対等に話をしており、やっぱり古代ギリシア哲学者の中でも一目置かれる存在だったのかな、と思いました。
悪魔メフィストフェレスはその頃、ポルキュアスという神話上の怪物に化けてヘレネ―の女中たちと口論するのですが、何となく諸葛孔明が赤壁の戦い前、呉の文官・賢人たちを次々と論破した様子が思い浮かびました。
ただ、三国志よりももっと口汚い罵り合いではありましたが。
女中がポルキュアスをなじり、それを逆手にとって女中をやりこめるというやり方は何とも言い難い気分で、それこそ様子を見ていたヘレネ―が言った「腹は立たないが、悲しくなってしまう」という気持ちになりました。
第二部では古代ギリシアの神々や怪物が多く登場するため、ホメロス「イリアス」「オデュッセイア」やヘシオドス「神統記」といった神話の知識もあるとより楽しめると思います。
というより、まっさらな状態で読むと少し冗長に感じるかもしれません・・・。
ギリシア神話の原典としてヘシオドスはページ数も少なくオススメですが、ホメロスはそれなりにカロリーがありそうなので、私も時間をとってじっくり読みたいなと思います。
後半では、二部冒頭に登場した皇帝たちが再登場します。
皇帝に対し反乱が起ころうとしており、鎮圧の助けをするためにファウストとメフィストフェレスが動きます。
ここも流石悪魔というべきでしょうか、二人はたくみに反乱軍を打倒し、ファウストは褒美として最後の事業を行うための海沿いの土地を手に入れます。
この時は、単にファウストは権力欲や支配欲のために土地を欲しがり、海を埋め立ててさらに領地を広げようとしているだけかと思っていました。
ファウストは晩年、海を開拓してできた土地で人々が力を合わせて津波や満ち潮に対抗し、働いて自由に暮らすことを美しいと考え、次の言葉を遺しました。
「日々に自由と生活とを闘い取らねばならぬ者こそ、
自由と生活とを享くるに値する」
ゲーテは、たとえ悪魔に唆されて放蕩を極めても、最期に悔い改めて他人のために行動する者は救われる、ということを伝えたかったのでしょうか。
あるいは戯曲の初めに神と悪魔が、ファウストが正しい道を歩むか、悪の道に堕ちるかという賭けをしていたことから、やはりなんだかんだ最終的に正しい道を歩んだと辻褄が合う、トータルでプラスになるような生き方をすれば良いということなのか、解釈の余地がありそうだなと思いました。
また何年か、あるいは何十年か後に読んでみると、違った受け止め方になりそうで再読が楽しみです。
おわりに、ゲーテと文学
ゲーテは早くから「若きウェルテルの悩み」で評価され、また実務では弁護士の資格を持ち、ワイマール公国の宰相を担うほどの優れた才を持つ人物でもありました。
一方で生涯をかけてこの「ファウスト」を書き上げたというのもまた、彼の粘り強さや文学・芸術への愛、さらにシラーといったよき理解者との出会いの賜物なのだと、しみじみ感じ入ります。
私も、何か文章を書いてそれが評価され、本を出して多くの人に読んでもらって・・・ということには漠然とした憧れがあります(今はブログという形で知らない人にも届くので、一部は達せられているとも言えますね)。
何かまとまったものを書いてみたいなーと思うことはあるのですが、大抵途中で飽きてしまったり、長い月日をかけて書くことに耐えられずパッと適当に終わらせたい衝動に駆られてしまいます。
ちなみにゲーテも同じようなことを考えていたのか、辛い時に「ファウスト腹案」として未完成のまま世に出そうとしたものの、周囲に止められて何とか書き進めていたようです。
私のところにもメフィストフェレスが現れてくれたら・・・と思いましたが、悪魔の口のうまさに魂を乗っ取られてしまう心配もあります。
やはりファウストが最後に辿り着いた、万人で協力して働き、自由に生活することを念頭にコツコツやっていくしかないかもですね。