platonのブログ

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動画倍速視聴と完全栄養食、〇〇分でわかる××のあらすじ

最近、本屋で「映画を早送りで観る人たち」という、動画の倍速視聴をなぜするのかといった本を読みました。

また、無断で映画を10分ほどに編集しあらすじなどを加え動画投稿サイトに公開する「ファスト映画」について、地裁で有罪判決が出されたこともニュースになりました。

www.nikkei.com

 

私自身もたまに倍速視聴をする時があるのですが、それは作品を味わうというよりも、内容を知りたいという目的を達成するための行動なのかな、と思います。

例えば人からYoutubeの動画をおすすめされた時に、再生してちょっと趣味が違うかなと思いつつも感想をひねり出すために倍速で内容を把握し、自分が気になった箇所だけを等速で視聴して「〇〇が面白かったよ!」と紹介者に伝えるなどですかね。

 

こうした行動は、多忙な現代で話題となっている完全栄養食(ないしはバランス栄養食)と呼ばれる食品を食べる行為に似ているように思いました。

様々な品目の料理をじっくり味わって食べるのではなく、時間や手間などの事情から必要な栄養を簡単に摂取できる飲み物やパンなどを選ぶ際も、倍速視聴と類似した心理が働いているのではないでしょうか。

 

私も以前飲み物タイプを試してみましたが、食事がかなり楽だったのは確かです。

しかし結局、固形物をもっと食べたいという食欲が勝ってしまい継続はできませんでした。

最近Twitterで話題に上がっていて気になった完全栄養食パンを調べていたところ、ありとあらゆるネット広告にターゲティングされてパンの写真ばかりが出現するようになったため、辟易して購入を辞めました。

既にオプトアウトしたので広告が表示されることは無くなりましたが、いざ購入しようと公式HPを訪れても、その時の嫌な記憶がよみがえるのでしばらくは縁がなさそうです。

 

動画の倍速視聴が話題になってそういえばと思ったのが、ネット記事やYoutubeでよく目にする「〇〇分でわかる××のあらすじ」といった類の解説です。

私も気になった作品や、一度読んだものの内容を忘れてしまった本、まず概要を掴みたい時などに使わせてもらっています。

Wikipediaなんかは、こうした概要説明の元祖といった感じなのかなと思っています。

 

私は猫も杓子も原典にあたれ、とは申しませんが(私も全然できていませんし、そもそも翻訳されたものを手にしています)、こうしたあらすじ解説と原典との間には、やはり決定的な違いがあるという確信を持っています。

そう考えるようになったきっかけは、一日1ページで世界の教養が云々といった本を読んだことでした。

 

折しも「教養」という言葉がフィーチャーされ、本屋でも「大人の教養」や「ビジネスマンのための教養」といったタイトルが平積みされていたような時分でした(もしかすると、そのブームはまだ続いているかもしれません)。

私も見事に踊らされて「教養」を集めるぞ!と息巻いておりました。

 

そんな時、ちょうど本屋で見つけたその本を読めば世界中の文学や科学、芸術などの知識、素養が身に付くと信じてページをめくりました。

知らないことも多くなるほどと感心しきりでしたが、私が好きな古代ギリシアの哲学者、プラトンの解説を読んだ際にある違和感を覚えました。

 

そこに書かれていた内容は、確かにプラトンの著作や考え方の一部分を示しているかもしれない、しかし自分で原典を読んだ際に感じたもの、頭の中で対話をした際の印象とは異なっているぞと思ったのです。

まあ冷静に考えれば、1ページでプラトンを解説するというのも土台無理な話です。

その時、もしかすると自分がなるほどと感心した他のページも、原典に触れると違った感想を抱くのではないかと思い、それからそうしたあらすじ解説への妄信はやめるようになりました。

趣味でかじっている自分がそう思うくらいですから、本業として研究されている方々からすると一笑に付すまでもないようなものも少なくないのだろうと思います。

 

「教養」を人が追い求めるのは、いつの時代も変わらないのだと思います。

近代の小説に登場するような上流階級の貴族社会では、一流の教養として古典や詩、聖書や当代随一の著者の最新の作品を読んでいるかといった話がしばしばされています。

知識人として評価されるように、話題に乗り遅れないために、また周囲の失笑を買わないために世間話の中でもそらんじて引用できるほど、そうした本を必死に読んだり、あるいはあらすじを頭に叩き込んでいたのでしょう。

 

翻って現代では、前述のような本に加えて映画やアニメ、ドラマや漫画、Youtube動画といったコンテンツが大量に生まれ、しかも日々無数に生産されています。

そうした様々な作品が増え、アクセスが簡単になるにつれて個人の嗜好も多様化し、コンテンツの話題を他者と共有するためにより多くの作品の「内容を把握」する必要が生まれたのではないでしょうか。

 

ソクラテスやプラトンの時代ならそもそもコンテンツ自体が少なかったため、ホメロスやギリシア神話、あとは自分の国の政治や周囲の国との関係、当代の悲劇作家の作品などを抑えておくだけで、市民として十分話題には困らなかったでしょう。

しかし、現代では処理する情報があまりにも多くなっています。

 

詰め込み教育からゆとり教育へ(そして脱ゆとりへ)と時代が変化し、多くの知識を蓄えるよりもそれをどう使うかということに重きが置かれるようになりました。

私自身もゆとり教育を受けた世代ですが、新設された「総合的な学習の時間」で自分の興味を深堀し、調べて発表するといった経験ができたのは、人生に良い影響を与えてくれていると思います。

それまでの教育で知識を詰め込んでいたスペースが空いたことで、そこに娯楽コンテンツだけを入れるのか、あるいはさらに勉強して新たな知識を入れるのかという差が生まれるようになったのかもしれないと感じます。

 

近年、リカレント教育やリスキリングなど、社会人になってからの学び直しが推奨されるようになりました。

私も哲学や西洋古典学、文学など学び直したいなと思い調べてみたものの、そもそも仕事に直結する学び直しが対象のようでした。残念。

 

史料批判のスキルや原典にあたる姿勢から一次情報を探索するスキルを身に着け仕事に生かしたり、哲学によって自己のアイデンティティを確立することで自己肯定感をもって仕事に取り組める、など理屈はこねられそうですが、政府が後押しする「学び直し」とは向いている方向が違ってしまうでしょうね。

英語やプログラミング言語もいいのですが、古代ギリシア語やラテン語を学んでみたいなあとも思っています。

ですがまあ、きっと趣味程度にやるのがいいんでしょうな。

 

ついでに、完全栄養食について調べていた時にちょっと面白い取り組みを見つけたので紹介します。

まだメニューは開発中のようですが、日清食品が普通の料理(とんかつ定食など)を完全栄養食として世に出すプロジェクトを進めているそうです。

www.nissinfuturefood.com

これが現実になれば、食事を味わう楽しみを得つつも、栄養バランスに気を付けて健康に生きるという理想的な食生活が実現するかもしれませんね。

 

さらにSF世界のような、栄養だけ摂取して匂いや味といった「食事体験」はバーチャルで済ませてしまう世界も訪れるのかなと思いました。

こってりとしたラーメンや油まみれのジャンクフード、ポテトチップスやジュース、お酒をしこたま楽しんだ気分になりながら、体に取り込まれるのはバランスの取れた栄養のみ。

そうした未来があるかもしれないと想像すると、この先長生きしてみるのも悪くはないかもしれないぞと思い、とりあえず今日はサラダを口に運ぶのでした。